
フレデリック・ワイズマン監督の『ボストン市庁舎』が、2021年 第95回 キネマ旬報ベスト・テン&個人賞外国映画ベスト・テンで2位になってました。
アメリカの市庁舎にカメラが入っただけでも貴重ですが、最大の特徴は、その上映時間(4時間32分)でしょう。なんでそんなに話すのかと多くの日本人が思うでしょう。それが、日本企業の経営幹部が学ぶべき海外事業展開の鍵だと思います。
私は、ミネアポリス、シンガポール、アムステルダムに住みましたが、ミネソタとアムステルダムはとにかく議論を尽くします。シンガポールはお上の言うことを聞くという点で日本と似ていました。
アムステルダムでは、政治、行政だけでなく、学校、スポーツクラブにいたるまで、議論を尽くします。印象的だったのは、インターの学校説明会。総務の担当者が説明を始めると、イタリアのお母さんが質問します。担当者は嫌な顔を全くせずに回答。質問があればいつでもどうぞ言うと、今度はインドのお父さんが質問。このあたりから、アジア系の父兄には苦笑いが広がります。結局、父兄からの質問を20分ほど受けてから、説明が再開しました。
日本であれば、最初に一番えらい人が挨拶。次に担当者が説明。その後に質問(パラパラ)でしょう。実際、父兄からの質問は、担当者が説明しそうなことばかりでした。しかし、アムステルダムの担当者は、当たり前のように真剣に質問に答え続けていました。オランダには、上下関係が本当にないんだなと実感した瞬間でした。
日本語は、そもそも、相手が自分より偉いか、偉くないかわからないと、会話できません。多くの人はそれがわかるまで、安全策で丁寧語で話し、徐々に適切な塩梅をさぐっていきます。
各自の役割も、社会で共有されています。会議室の予約をするのは、グループの一番目下の役割でしょう。アメリカ人は、誰が予約をすべきかについても話し合います。
平等という観点から見れば、日本式は理不尽です。しかし、部屋の予約のような些細なことに時間を割かなくてもよいという点で効率的ではあるのです。トヨタがムダ取りできるのも、そもそも、余計なことに時間を割かないという社会の上に立っているからではないかと私は見ています。
一方、社会に変化があるときには、日本式は不利です。アムステルダムは常に議論し続けているので、変化が真っ先に俎上に上がります。日本だと、空気を読んでしばらく黙ったままで、20年ぐらいしてから、IT化してますので、ハンコ止めましょうかという話になります。
家族類型でいえば、各家族的な文化を持つ国に進出する時には、ウンザリするほど議論に付き合う覚悟が必要です。私のような50歳代には、耐えられそうにないですが、そうでなければ、現場の声を拾うことができないのです。