【本】勾留百二十日


大坪弘道 文藝春秋 2011/12
大阪地検元特捜部長の手記。逮捕する側が逮捕される側になった時に、どういう行動を取るのか。興味深く読みました。こうした手記が、判決前に出版されるのも異例ですね。

フロッピーの改竄事件については、監督責任はあるが、故意に証拠を隠滅していないという立場。後は、これまでの検察人生と拘留期間の手記になっています。佐藤優さんなどの本と読み比べると、おやと思う箇所がいくつかあります。
 最初は、マスコミとの関係。逮捕が近づき、メディアスクラムに遭うと、まっ先に助けを求めるのが馴染みの記者。検察のリークが批判を集めている中で、難の後ろめたさもなく、元特捜部長が書いてしまうところに、検察の方の世界の狭さを感じます。
 また、検察が相手の立場に立つという訓練は受けない組織なのだなというのもわかります。デパートの社員であれば、顧客になった経験から自分のサービスを修正することがあるでしょう。検察は、逮捕されないのが前提なので、自然にはできませんが、訓練はあってもいいと思いました。たとえば、身内への捜査をチラつかせるのは、検察が使う手ですが、

もし妻に指一本でも触ってみろ。ただではおかないぞ!私が知っているすべての秘密をバラして検察をガタガタにしてやる。

 自分にやられるとこういう反応をするのですね。大阪高検の三井環元公安部長を担当したと書いてありますが、どのような対応をしたのかは書いてありません。
 組織論としても、興味深いです。忠誠を尽くしてきたのに、最高検からあっさり見捨てられたと何度も指摘していますが、直系家族な組織がお家の危機に際して、どのような行動を取るのかは明白です。陸軍もそうでしたが、検察も同じなのだなと思いました。
 本書を読めば、この裁判については、著者が無罪になる可能性があるのはわかります。しかし、佐藤優さんのように、逮捕された意味を感情移入することはできませんでした。やはり、検察は強力な権力を持っており、非常に厳しい倫理観が求められるからだと思います。