陸前高田でボランティア (season 2)

 5月の初訪問から3ヶ月ぶりに陸前高田に向かう。
 朝6:40に盛岡駅集合。参加者は40名。8名が初参加だが、残りはリピーター。遠くは福山からの参加者もいた。シニアが多いが、夏休みだからか女子学生の姿も。真夏の肉体労働だというのに半数は女性。

 盛岡から陸前高田へは車で3時間。岩手は広い。同じ県内とはいえ、時間的には、東京から新幹線に乗って、大阪にボランティアに行くようなものだ。
 岩手日報を読む。一面は花巻東。昨日、盛岡ではテレビの前に人だかりができていた。高校球児の闘う姿が、岩手県民に希望を与えていた。
 中を読むと、実に細かく地元、特に被災地の情報を拾っている。東京で震災が起こったら、地域の細々とした情報は何が伝えてくれるのだろう。停電になれば、携帯は使えない。
 被災松送り火 “不安の声”で中止というニュースを読んだ。震災で亡くなった人たちのために、「高田松原​」の松で作った薪を京都の「大文字五山の送り火」で燃やそうと​いう計画が、「放射性物質の影響が不安だ」という声が京都市など​に相次いで寄せられ、中止された。
 仮設住宅の​建設に目処が立ち、次は雇用。現地に来てみれば、ここでできる仕事は極めて限られることがわかる。「薪を集める」というのは、少ない仕事のひとつのはず。こんな結末は悲しい。
 気仙町に入ると、横断幕が見えた。前向きなメッセージを記した幟(のぼり)なども目に付いた。以前は空き地だったところで、中古車販売の幟が立っている。こうして商売が始まっているのを見ると、こちらが励まされる。
 一瞬だが山車が見えた。こ地域では、山車をぶつける「けんか七夕」がある。4基中3基がも津波に流された。残った1基で祭りを実現。来年は2台にして「けんか」をするのが目標という。
 陸前高田市復興街づくり実行委員会が立ち上がっている。陸前高田市復興街づくりイベントが、8月27日、28日に開催予定。地元からイベントを立ち上げる力が沸き上がってきている。

陸前高田 ボランティアセンター

 ボランティア・センター到着。5月の時よりもボランティアは減っているように思うが、脈々とつながっている。用具を積み込んで出発。センターの人が笑顔で手を振ってくれた。3ヶ月前は無かった風景。
 中心街に入る。5月に来たときより片付けは進んでいる。すごい現場力だ。被災地なのに、瓦礫が分別されている。しかし、瓦礫の山は以前より高くなっている。この処理は政治判断だ。5ヶ月経っても行き先は決まっていないようだった。
 国道45号線の気仙大橋が7月に開通した。車の流れがスムーズになっているが、土木工事は、それなりに時間がかかる。
 現場に到着。立っているだけで汗が吹き出る。東北の電力が心配。
 10時作業開始。本日はヘドロの除去。漁港への道がヘドロで埋まり、車が通れない。40人で下水溝を掃除する。しかし、下流の土管が詰まっていて、下水が溢れている。土管の復旧は無理なので、土嚢を積んで、下水を海に流す。40人で作業をするが、汗が吹き出る。建物がすべて流されているので、日陰がない。「こんなことしてると、日射病になりますよ」というお手本のような状況。
 20分働いて10分休む。冷房の効いた部屋でこのブログを読んでいる方には笑われそうだが、私にはこれでもキツかった。前回の反省を生かして、今回は2リットルの水を持ってきたが、14:30に作業が終わるまでに飲み干していた。
 まずは、ヘドロを一輪車でどける。言われていたほどではないが、匂いは鼻につく。次に土嚢(どのう)を作って、水路を作る。水を含んだ土は重い。みんな文句も言わずに黙々と土嚢を積んでいく。
 1時間もすると、私の足元がふらつく。工事関係者、農家の偉大さを知る。自衛隊員の姿は今は見えない。もう一度「お疲れ様でした」とお礼を言いたい。中年というのは、こういうことなのだ。真夏の一番暑い時期に野球なんて、若くないとできない。
 全国の高校生は、今年に限り、修学旅行をボランティアに振り替えてはどうだろうか。京都にはオジサンになってからでも行ける。 

車と陸前高田の海

 昼飯。10人ほどが、たまらず冷房の効いたバスに戻る。会話がない。とにかく食べなきゃと思い、箸を動かす。
 午後の作業になると、だんだん握力が失われていくのがわかる。中年になって体力が失われると、持病が前面にでてきてしまうのだ。腰痛と戦い、痔を押し戻しながら、作業を続ける。
 休憩になると、たまらず日陰のビニールシートに倒れるようになる。見あげれば、10メーターぐらいあるだろうか。そよ風に木が揺れている。ここまでは夏休みによくある風景。しかし、枝には、漁具が挟まっている。あの場所まで海が来たのだ。
 作業に戻る時に、海岸を巡回する警官隊にあいさつ。遺体捜索だろうか。お盆に発見されたら、それはそれで切ない。
 下水溝の作業を終え、瓦礫の撤去に移る。前回もそうだったが、これも考え込む作業だ。もしも、この土地を元に戻すのなら、表面のゴミを取るだけでは不十分だ。数十センチはあるヘドロを重機で除去しなければ、解決しない。40人が作業してキレイになるのは、わずかな面積。Google Mapでは点にしかすぎない。しかし、我々は、壊れた瓦、サッシ、木材を拾い集める。この心の葛藤が、ボランティアに来る意味なのだと思う。
 14:30作業終了。首が火に焼けて痛い。汗で重くなったシャツを着替える。
 盛岡に戻る。

 気仙川に釣り人あり、いと嬉しからずや。

 3.11には、この川を津波が遡り、人の命を奪った。人の命を奪った川は、人の命をつなぐ川に戻っていた。いまも、自然が厳しいことに変わりはないが、私たちはどこかで折り合いをつけなければいけないと思った。