ロシアについて 司馬遼太郎 文藝春秋 1986
今こそ読むべき本。これほどの洞察を36年前にしていたとはさすが。江戸幕府から始まったロシアとの交渉は、さまざまなすれ違いが累積してきたのがわかります。日本は隣国に対する研究、理解ともに欠けていますね。
私どもは、人類の文明史からみて、ロシア人によるうロシア国は、きわめて若い歴史を持っていることを重視せねばならないと思います。ロシア人によるロシア国家の決定的な成立は、わずか15,6世紀にすぎないのです。若い分だけ、国家としてたけだけが古すぎる — たとえばフランスのような– 国は、いい意味でもわるい意味でも、蛮性を希薄にしているといえます。
p.12
中国のように長城や防御力をもつ年をつくるにいたらず、また西方のローマ文明社会のように城壁と石造城館をもつ都市国家をつくるということもしなかったということが、ロシア国家史の開幕を遅らせ、またその遅い開幕を内容をも特異なものにしたといえます。(中略)この平原にあってつねに外的におびえざるをえないというのが、ロシア社会の原形質のようなものになっており、いまなおつづいているといえないでしょうか。
p.16
影響が大きかったのはモンゴル。
イスラム圏を火のように焼きつくし、諸城市の文化のにない手だった職人たちを連れ去り、工学的なものをつくらせました。モンゴル人の誇りは風変わりなのです。まず農耕をしないこと、次いで工芸品を作らないことでした。それは卑しいことと思っており、農業というものについては農民から作物を掠奪すればよく、工芸・工業につては、その職人ぐるみで連れ去って自分たちに奉仕させるというやり方をとりました。戦えば、地に一物ものこさない、というやり方で、ともかくも自らの武を誇るのみで、生き方を異にする農民やまた他民族に対し、人間としての同情をほとんど持たなかかったのです。
p.19
この結果、「タタールのくびき」といわれる暴力支配の時代が、約250年間のなかきにわたって続きました。特に、キブチャック汗国の影響は大きく、16世紀になってはじめてロシアによる国ができるが、その国家のつくり方やあり方に影響を与えました。軍事力による被支配と支配の体験が、ロシアという国あるいはロシア人を、軍事力に依存する国に作り上げました。
外敵を異様におそれるだけでなく、 病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器 への異常信仰、それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺伝だと思えなくはないのです。
p.25
日ロ関係については、お互いの理解不足から、すれ違いがつづいたのがわかります。ハっとするのは、日本は江戸時代も、非武装だったこと。来日したロシア艦隊レザノフ卿に対して、
「艦が持っている一切の火薬を日本川があずかる。銃器も同様である。後日、出港のときに返す」
p.160
と申し入れたとか。
当時、「日本はいかなる武装も持っていない」ということは諸外国によく知られていたが、そういう非武装国としては、こういう処置がもっとも有効であった。
ついでながら、日本はいまなお核に対して、形式上、こういう習慣を持っている。文化の原形というものは容易に消えないのである。
p.160
それに対して、ロシアは、
そういう日本国が、わざわざカムチャッカ半島の一寒村まで攻めてくるはずがないではないか。でありながら、ロシア側はそこに砲兵隊を駐屯させて毎日訓練している。まことに防衛意識の過剰さというか、病的としか言いようがない。
p.175
今日のウクライナ情勢を予見しているかのような卓見でした。