【本】危機の日本史

危機の日本史 佐藤優 講談社 2021/3

富岡幸一郎氏との対談。明治以降の150年を考察。近代とはなにかについて深く考えることができました。最初はクロノスとカイロスの話。

近代日本、あるいは近代そのものを捉えるためには、一方向に均等にながれていくクロノスとしての時間ではなく、時代の転換点をなすカイロスをみなければいけない。歴史の結節点がどこにあるのかを見極めることがポイントでした。そして今まさに近代の終着点で、コロナという前代未聞のカイロスが現前している。

p.205

 次に、リスクとクライシスの違い。

新型コロナウイルスによる感染拡大で、日本は現在、太平洋戦争後、最大の危機に直面している。もっとも危機という日本語は幅が広すぎて、現状を分析するのに不適切な言葉だ。なぜなら、予測可能で対策が立てられる「リスク」、予見が難しく、対処を間違えると人間ならば死、国家や民族ならば滅亡につながるような「クライシス」も日本語では危機となってしまうからだ。(中略)コロナ禍は「リスク以上、クライシス未満」の危機なのである。

p.6

 第1章は明治。自由民権運動を仮想敵として帝国憲法と教育勅語が発布された。教育勅語の原案にあった「天」という言葉が削除されたというのは興味深い指摘がありました。

第5章は、現代。印象に残るのは、翼賛の思想。

この国では危機になると同調圧力のメカニズムが現れる。平成の東日本大震災のときには「絆」という言葉でボランティアが鼓舞され、翼賛の思想が更新されました。令和のコロナ危機においては「自粛」がキーワードですね。

p.177

  行き着く先は、佐藤氏が『国家論』で述べている次の状況。

第1は、新自由主義下の格差がもたらす地獄絵図です。(中略)すでに日本は年収が200万円以下の人々が1000万人を超えています。このような状況が続くと、低所得者はぎりぎりの生活しかできず、家庭をもち、子供を作ることすら難しくなります。また、高所得者と低所得者の間で、『同じ日本人である』という同胞意識が薄れていきます

p.177

この格差是正を国家に期待すると、官僚の我田引水につながるとの指摘。

国家は、暴力によって担保された、本質的に自分の利益しか追求しない存在です。確かに、国家が所得の再分配や社会福祉のための機能を果たすことはありますが、それは原理的にそのような方策をとらないと国家自体の存立根拠、すなわち官僚の存在基盤が危うくなるときに限ります。さらに、日本人としての同胞意識を高める機能を国家に期待すると、それは必ず官僚の都合の良い方向に社会が誘導されるという結果を招きます

佐藤優『国家論』

 旧軍で起きたことが今も繰り返されているわけです。軍事官僚の特徴は、企画立案と、実行と、評価が同一主体だということ。これは今の日本の官僚システムと同じです。自分が企画立案して、自分が行動したことを自分が評価するわけですから、成功か大成功にしかならない。

p.179

 昭和は1970年代半ばまで。日本の近代の構図(農本主義)が失われた。バブルから重商主義になり、崩れていった。今のコロナ禍は遅れてきた平成の終焉とみる。

  大きなスパンでは、ウェストファリア体制以来の近代の終焉との見方も。

  古井由吉の言葉。

いまの社会のように、表面は平穏で、底の方が急変してゆく社会は、歴史上、なかったはずです。これまでは、社会が変わる時は大事件が節目となってきました。明治維新、関東大震災、二度の世界大戦。こうした節目で日本は大きく変わったことは、はっきりしています。ところが、戦後は、同じクラスの大事件は起こっていません。にもかかわらず、大事件があったのと同じどころか、より大きく社会は変わっています。

p.187

 もうちょっと、自分でも勉強したいと思いました。