半藤 一利、出口 治明 小学館新書 2016/8
お二人の対談。歴史に学び、安易な日本特殊論に警鐘を鳴らしています。日本も世界史の一部に他ならないと。
たとえば、女帝の世紀と知られる白鳳時代、奈良時代。
拓跋部(Tuò bá bù)は伝統的に実力優先で、能力があれば女性でも自由に活躍できる社会でした。
均田制をはじめた北魏の馮太后は5世紀の後半、都の平城で20年を超えて権力を恣にしました。武則天(Wǔ Zé tiān)は、7世紀の広範から、実に半生記にわたって大唐世界帝国に君臨しました。
こうした東アジアの大きな流れが一種のロールモデルとなって、我が国の女帝の世紀を招来したと見るほうがよほど自然ではないでしょうか。p.12
自国は特別である、特殊であるという意識は、実は東アジアの各国に特徴的な現象で、その底流にあるのが「中華思想」だと僕は思っています。p.20
起源は、西周(BC1046-BC771)の威信財交易に求めていました。
リベラルアーツの重要性については、何度も出てきます。
戦前の陸軍には、日本語訳のヒトラーの『わが闘争』を読んで、この本はおかしいと批判した人がいたそうです。「ヒトラーはこの本でアジア人を侮蔑していたではないか、なぜその部分が載っていないのか」と指摘したのです。この人はドイツ語の原文を読んでいたから、気づいたのです。p.61
国家の判断要素については、p.88。
指導者の器と参謀たちの能力と、それからメディアの論調、この3つの組み合わせで、いい判断ができるかどうかが決まるのではないでしょうか。
小村寿太郎と松岡洋右の比較は興味深いです。米朝会談によって日本外交も、大きな分岐点ですね。
同じ戦争を始めるにも、日露戦争の時には出口戦略があったのに、太平洋戦争の時にはありませんでした。
伊藤博文にはロシアと日本の国力の差がわかっていたので、即金の金子堅太郎という政治家を早くからワシントンにおくりこんでいた。金子はハーバード大学に留学経験があって、そのときにセオドア・ルーズベルトと大の親友になっている。p.92
前任者の決断を否定できない「経線指向」は、p.100
総力戦についての理解が、日本に欠けていたことを示すエピソードは、p.118
第二次世界大戦のときよりも、第一次世界大戦のほうが英仏の死傷者数は多いのです。
ドイツの例は、p.118。
日本の銀樹物質の生産量は、1941~1942年にピークを迎えて、翌年からは落ちていくのです。(中略)ナチスドイツにはあるベルト・シュペーアという天才的な軍需相がいたこともあって、軍需物資の生産量は1944年の夏にピークを迎えています。
ノモンハン事件での日本軍の対応は、p.142。
満ソ国境を守っていたのは、その直前に九州や中国地方から送られた兵隊さんたちなんです。ところが、猛烈に寒い地域でしょう。だから、南の兵隊はダメだと、役に立たないとなって、北海道や東北の師団に取り替えたんですよ。(中略)
当時の北海道、東北のヒットたちは多くが、自動車の運転ができなかったんです。一方で九州の師団の人たちは運転のできる人が多かった。それで現地では、自動車で弾薬や物資を運べなくなってしまった
吉田首相のインタビューは、.154。
「みんな、憲法を改正して、早く自衛隊を国防軍にしろとか言うが、そういうことはしないほうがいい。むしろ、この国は今の路線、協調路線をしっかり守っていったほうがいいんだ」と。基本的には、「アングロサクソンと仲良くしろ」と。
リアリズムについては、.155。
こんな狭い国土で、しかも国境線がやたら長い国土で、真ん中に大山脈が走っていて、平野部は海岸線にしかなく、そこに原子力発電所が50以上もある。守るにこんなに守りづらい国はない。
イラクでもどこでも、英軍はアメリカ軍といっしょに地上部隊を送っています。それは何のためかといえば、アメリカに対するバーげニングパワーのためだというのです。
アメリカって割と気弱なところがあって、一国でやれる十分な力があるにもかかわらず、一人でやるのは嫌なんですよ。p.156
エリート教育を賛美していますが、2016年以降、世界で起こっている反エリートの動きについても聞きたいところでした。
では。