男女共同社会のお手本とされるスウェーデン。しかし、スウェーデンは、日本と同じ直系家族的な社会であり、そう簡単に男女の役割が変わるはずがない。たとえば、日本も、絶対核家族なアメリカに1945~1952の間占領されたが、上意下達の文化は変わらなかった。
専門家は、配偶者分離課税や、議員の女性比率が、社会を変えたという。しかし、同じことを日本が採用しても、男女平等になるとも思えない。初めてストックホルムを往訪する機会を得たので、街を歩いて感じたことを書いてみたい。
ストックホルムの街を歩いて気づくことが2つあった。ひとつは、厳しい寒さ。勤労感謝の日には雪がちらついていた。日没も午後4時ごろ。太陽も低く、正午でもまるで夕方のような日差し。厳しい冬を生き延びてきた国であることは容易にわかる。
もう一つが、深い地下鉄。日本の半蔵門線も深いところを走っているが、ストックホルム市駅で鉄道に乗るためには、地下6階まで下りなければならない。しかも、広々とした空間で、壁は洞窟のようなデザインになっている。核シェルターを想定したのではないかと感じてしまう。厳しい国際情勢の中を生き延びてきた国であることもわかった。
下表は、20世紀の世界情勢とスウェーデンの男女平等の歩みである。
これをみれば、スウェーデンの男女平等の歩みが、国際情勢の変化に対し、国の存続をかけて対応してきた結果であることがわかる。
成人男子による普通選挙が導入されたのは、ノルウェーの独立を認めた後だった。第一次世界大戦前に、国民を国の政治に巻き込む必要があったのであろう。
下図は、19世紀以降のGDPの推移である。
産業革命で先行するイギリスをドイツが追いかける。ロシア革命後の旧ソ連を巻き込み、三つ巴の争いになっていた。スウェーデンとドイツのGDP格差は、1820年に8倍だったが、1913年で13倍にまで開いていた。中国の一人あたりGDPが日本とならび、GDP格差が13倍になり、軍拡競争を繰り広げたと想像してみてほしい。スウェーデンの恐怖がわかろうものだ。
厳しい冬があるスウェーデンは、戦争になって、港を封鎖されたら、生き延びることが困難になる。両大戦間にバルト海に敷設された機雷は、16万発に達したという。こうした危機は、国王の軍に防衛を任せるだけではしのげず、全国民(男子も女子も)を総動員しなければならなかったのではないだろうか。
ちなみに、私は、アメリカのミネソタ州に住んでいたことがある。北欧からの移民が多い地域で、冬にはマイナス40度にもなるところに、150年前に移住してきた人の辛抱強さに驚嘆した。
スウェーデンは貧しい国で、アメリカに移住者が多数出る国だった。
1940年には、ナチスドイツは、デンマーク、ノルウェーに侵攻。
中立だったスウェーデンにも外圧をかけてきた。フィンランドはソ連と交戦。ソ連の爆撃機は、スウェーデンの街も攻撃していた。
なんとか、第二次世界大戦はしのいだものの、その後は冷戦が始まった。東欧諸国に対するソ連の締め付けを見れば、スウェーデンとしては、ドイツの敗戦で気を緩めることができなかったはずだ。工業化を推し進め、経済力を高めることが、生き残るためには、不可欠だった。
不足する労働力は、女性に頼ることになった。彼女たちが働きやすい環境を作ることは国家が生き延びるために、不可欠だったのではないか。こうして、厳しい国際情勢への対応として、男女平等の施策を振り返ると、なぜスウェーデンが、これほど男女平等の社会を作れたのか腑に落ちた。