下村治―「日本経済学」の実践者 (評伝・日本の経済思想)
上久保敏 日本経済評論社 2008年4月
日本の高度経済成長を独創的理論で支えたエコノミスト、下村博士の評伝。戦後日本経済の論争に挑み続けた博士の人生を振り返ると、今の日本経済の姿がクッキリの浮かび上がってきます。
下村博士のキャリアは、戦前の大蔵省に始まります。今は、ガソリンが30円上がったと騒いでいますが、小売物価は、1945年9月から46年2月までの5ヶ月で2.7倍になっていました。博士は、まともな統計もない時代に、物価部に異動し、物価対策に当たります。
大蔵省物価部から安本の物価政策課長のときまで下村は自らの発案でやみ物価調査を行い、新橋やみ市場の市価を毎日調べて、やみ物価指数まで作成した。p.26
実態調査は、政策立案の基礎なんですね。後期高齢者医療制度で、保険料が上がる人と下がる人の数がわからないという今の役所仕事とは、姿勢が異なります。
その後、池田内閣のブレーンとして活躍するわけですが、日本経済に対する博士の見方を象徴しているのは、こちらのコメント。
日本経済についてありとあらゆる欠点や弱点を並べたて、その国際的な水準の低さや文化的、社会的、経済的なアンバランスをあざわらい、今にも日本経済が破局におちいるかのようにいいつのる人びとを見ていると、あたしはアンデルセンの「醜いあひるの子」という童話を思い出す。/われわれはあまりにも長い間、後進国敵な状況にとどまりすぎたようである。そのために二重構造とか、所得格差とか低賃金とか、要するに、日本経済の貧しさや後進性が、われわれ自身の宿命的な属性であるかのようにあまりにも諦観されすぎたようである。/つい最近まで、日本経済の成長力について、執拗な疑問が述べられてきた。経済成長が二重構造と不可分であり、所得格差は経済成長とともに拡大するほかないという迷信が、いかに広く信奉されてきたか。/しかし、日本はあひるの子ではなかったようである。時至れば、見事な雪白の翼をはばたいて、大空高く飛び上がることができることを、ようやく示しはじめたようである。p.140
高度成長論への批判に対しては、こう述べています。
経済成長を推進する原動力は国民自身の創意と工夫なのだから、現実にあらわれた国民の経済成長への意欲と努力とがわれわれの想定をはるかにこえているというだけの理由で、これを抑圧することはできない。そこに若干の危険があるにしても、危険と不確実は革新から取り除くことのできない属性であり、これを乗り越えるたくましい行動力によって、はじめて新機軸が生まれ、新事態が創造される。経済成長とはこのようなものである。p.145
石油ショック後は、一転して、ゼロ成長を主張することなるのですが、時代を超えて、現代の若い経営者へのメッセージのようにも聞こえます。
博士は89年に亡くなりますが、88年に発表された最後の警告は、こちら。
日本経済は順調に拡大しているように見えるが、それは輸出超過によって支えられた拡張である。輸出超過を解消していく過程で日本経済にはデフレ的な影響が出てくる。これまでもこの影響を避けるための調整を行なってきたが、日本の産業界はもう一段の調整をしなければならない事態にいずれ直面する。アメリカは世界中から金を集めて、過剰に消費する不健全な経済運営をしている。日本経済はアメリカに調子を合わせるのではなく、「健全で正常な考え方」で運営されねばならない。資産価格の膨張で生活水準が良くなることに浮かれていてはダメである。
その慧眼は、怖いほどですね。
では。
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【参考】
・週刊東洋経済の「2008年上期 経済・経営書BEST100」で13位になっていました。