オランダ紀行 司馬遼太郎 朝日新聞社 1994。
オリジナルは、週刊朝日1989年12月1日〜1990年8月31日号の連載。著者3度目の訪蘭の手記。
冒頭は、オランダで建造された咸臨丸のエピソード。福沢諭吉は、渡米した際に、現地でさまざまな新技術を紹介されますが、蘭学によって既に理解していました。電信機も、オランダ語のtelegraafで理解。今では、オランダ最大発行部数を誇る新聞社の名前になっています。
著者は、オランダを宗教(プロテスタント)から観ていきます。
たとえば、海上には、司祭がいないのである。ところが、ルターに従えば、素人がみな司祭なのだ、という。
p.27
カトリックは、農民に全てを司祭に委ねるよう求めました。商人は、自分で考える宗教を求めていたのですね。
17世紀、オランダ人一般が自立主義や合理主義、あるいは近代的な市民精神を持つにいたるのは、かれらが商業民族であったことと、新教の浸透による。
p.28
しかし、そのためには、当時最強だったスペインと戦わねばなりませんでした。1574年の戦闘を描いたライデン市庁舎の壁画を見て。
1574年のこの日こそ、世界史的な市民社会誕生の日だったが、オランダ人が宣伝(?)しないために、200年のちのアメリカ独立宣言(1776年)やフランス革命(1789-99年)のほうが有名になってしまっている。
p.73
独立して、まだ国の体制が整うかどうかの時に、オランダは日本に船を派遣します。
日本では徳川家康が勢力を得つつあった1600年、オランダは東洋にむかって5隻の船を派遣した。決死の大航海というべき壮挙で、無事豊後の臼杵湾に到着できたのは、デ・リーフデ号1隻だけだった。
p.28
当時、オランダの人口は150万ほどにすぎなかったことを思うと、市民本位の国家ながら、人々とに英雄的な気概があった時代といわねばらなない。
オランダは、ヨーロッパ第一の国民所得を誇るようになります。
「仕事」
p.29
というものにかけては、ヨーロッパ随一の能力をもっていた。
物事を組織的にやるという、こんにちの巨大ビジネスのやり方をあみだしたのは、17世紀のオランダであり、18世紀はじめの英国は、それをいわばまねたにすぎないとさえいえそうである。
その自由な空気は、イギリスのプロテスタントをも引き寄せます。英国国教会に不満を持つピューリタンは、信仰の自由を求めて、1608年オランダに移住します。
かれらはライデンに10年ほどいた。
p.80
が、手に職がないために経済的に苦しくなり、いっそ新大陸にわたろうということになった。アメリカに、ヴァージニア植民地がつくられたときいたのである。
かれらはまずイギリスに帰り、国王から入植についての特許状をもらい、1620年、オランダ人を船長とするメイフラワー号に乗って英国プリマスを出帆した。
こうした自由な空気は、芸術にも影響します。
画家といえば、オランダは、絵画の国でもある。17世紀にレンブラントを生み、19世紀にゴッホを生んだだけでも、この国は人類に大きく貢献した。
p.86
それに、静物画や人物画や風景画という分野を開発(?)したのも、17世紀のオランダ人だった。それまでの画家で、たれが、ただの農家のテーブルや、無名の市民や、へんてつもない田園が絵になると思っただろう。
レンブラントの最高傑作と言われる夜警(De Nachtwacht)も、お金持ちの市民が、割り勘で依頼した絵だったのですね。
この16,7世紀では、日本でも織田信長や、豊臣秀吉、徳川家康といったひとたちの顔が絵画としてのこされているものの、中程度の武士や商人の顔はめったに残されることがない。人類史上、普通の人達の顔がもっとも多く残されているのは、17世紀のオランダ人であるはずである。
p.128
オランダの歴史家、レオ・バレットの分析は、こうしたオランダ人の性格を育(はぐく)んだのは、殺人的な海とされる北海である、という。
船乗りとして頼るべきものは自分の機敏さ、天候その他についてのするどい観察力、さらには操船のために必要なたえざる精神の集中しかなかった。
p.88
小さな国ゆえ、揉まれて新たになるというのは、明治の日本を見ているようです。
では。