野口 悠紀雄 東洋経済 2015/5
1940年体制の着地を考察する本。最初は、1940年体制について。
彼ら(革新官僚)の理念は産業の国家統制です。企業は公共の利益に奉仕すべきであり、利益を追求してはならない。また、不労所得で生活する特権階級の存在を許してはならない、という考え方です。
これは、社会主義の思想です。事実、岸が目指したのは、日本型社会主義経済の建設でした。これに対して、阪急電鉄の創始者で戦前の経営者の代表的人物だった小林一三商工大臣は、当時次官だった岸を「アカ」と呼んで非難しました。p.8
この体制は、戦後の植民地支配下でも生き延びた様が描かれています。
高度成長期にかけては、通産省と日銀が、外為規制と金利規制で大きな権限を持っていた様を描いています。所得倍増計画については、
「10年間で所得を2倍にする」という所得倍増計画は、いまの感覚では信じられないほど野心的なものに思われるでしょう。しかし当時の日本経済の成長力からみれば、むしろ控えめな計画でした。p.78
日本がこれほど高い成長を実現できた隠れた原因は中国。
日本よりさらに賃金が低い中国がこの時代に工業化されていれば、日本の成長はありえなかったでしょう。ところが、中国は70年台半ばまで鎖国状態にありました。「大躍進政策」という愚かな政策で中国を鎖国にとどめておいた毛沢東こそが、日本の高度成長の恩人です。p.105
輸出主導でなかったというのも、意外でした。
国内総生産に占める輸出額は、高度成長期を通じて始終15%以下でしかありませんでした。現在のアジア新興国の輸出依存度が、韓国42.9%、タイ58.1%、マレーシア73.1%、香港167.5%、シンガポール138.7%などと非常に高い値を示しているのとは、まったく異質の経済構造です。p.105
1964年、著者が入省した時の高木避暑課長の訓示はこちら。
諸君の先輩で、先日、酔っ払って警官を皇居のお堀に投げ込んだ者がいた。ここまではやってよろしい。私が引き取ってやる。しかし、それ以上は、やるな p.94
時代を映しています。
その後の石油ショックも、労使協調で克服。そしてバブルへ。
金融緩和は確かに重要な原因です。しかし、この時代のバブルの発生には、もっと深い原因があると私は考えています。それは、「80年代後半に1940年体制が必要なくなった」という事実です。p.228
バブル崩壊にともなう不良債権処理については、無税償却についても言及しています。
大きな問題が生じたとき、その原因や処理の経緯を明らかにし、その是非を議論することは不可欠です。(中略)しかし、バブルの後始末では、そうしたことが行われませんでした。40兆円以上の公的資金のうち10兆円が回収不能となり、39兆円も法人税収入が減っていながら、それらの理由も家庭も是非も、議論されていないのです。p.256
1995年以降の日本経済停滞については、
地下の継続的な下落で不良債権がいつまでも片付かなかったことや、消費者物価が下落することが問題だったのではなく、日本の産業構造や経済体制が時代の新しい条件にて企業しなかったことが、日本経済の不調の基本的な原因だったのです。p.295
安倍内閣の評価は、
実際に行われているのは、いま述べたように、40年体制の復活そのものです。p.320
日本がやるべきことは、明らかですね。あとは実行あるのみかと。
では。