【本】マラッカ物語

マラッカ物語

鶴見 良行 時事通信社 1981/10

マラッカ海峡周辺の歴史本。資料が少ない地域で、膨大な資料をあたっている貴重な書。

そもそも、マレー語で書かれている資料も少ない。 植民地四百数十年間の記録や研究は、白人支配者たちがそれぞれの言語で行い、その本国に保存している。ヨーロッパに留学しないと自分のことが研究できない、という悲しみが、東南アジアの国ぐににある。p.29

この地域に大きな影響を与えたのが、モンスーン。p.34。汽船ができるまで、船での移動は風に影響を受けていました。中東からの移動は、季節風が入れ替わるタイミングを見計らう必要があるため、容易に2年かかったとのこと。

沿海部と内陸部について、はっとしたのは、p.79の記述。

沿岸部住民はイスラム意識が強く、公益に従事しているが、内陸部住民は、ヒンドゥー的で、焼き畑、水田耕作者だ。

つい最近まで、厳しい自然の中で生きてきたことを思わせる記述は、p.176。

1930年代、ペナン島対岸の狭い帯状の英国植民地では、犯罪による死亡者数よりも、虎に食い殺された人間の方が多かった。

ま、1830年代のマラは半島の人口は、30万人程度だったのですが。p.179

日本でも、関東軍の暴走はよく聞くが、英国でも、ロンドンと現場との対立があったことも書かれています。p.178とか。

この頃には、貿易が大きな利潤を生むようになっていました。

植民地市民会議の1845年の最大の議題は、年に2隻の船を仕立てアメリカから氷をとり寄せている香港を見習うべし、というものだ。(中略)大西洋から喜望峰を超え、インド洋を渡って運ばれる氷の輸送費を負担し得るほどに、アジア交易は利をあげていたのだ。

その中心は、プランテーション。

今日マラヤ半島でわれわれが見るどの道路、都市をとってみても、スズとゴムに関係なく出来上がったものはない。p.242

その原動力になったのは、華僑ネットワーク。p.294

帰国を夢見ている多数派の華人を分立させた最大の契機は、出身地ごとの郷幇である。福建、広東、潮州、海南、客家である。省レベルの下に、州、県と細分化され、さらに同業者団体の業幇、祖先と姓を同じくする宗教団体があった。

アヘンの話も、新鮮でした。アヘンの汚染は、中国本土だけでなく、東南アジアの華僑にも、広がっていました。

「マラヤ軍政最大の汚点」と軍幹部も認めるこの事件は、華人だけを選んで虐殺したから、すでに抗日意識の強かった華人はいっそう結束を固めた。多くの青年や国民党よりだった金持ちの華人までが、ライテクの始動する共産党の抗日人民軍に心をかよわせるようになった。

では。