村山治 文藝春秋 2008/4
以前、『特捜検察vs.金融権力』をご紹介しました。同じ著者が、「戦後、政界汚職を摘発してきた検察が、なぜ、市場関係者の摘発に取り組んできたのか」という視点で司法改革を描いています。ライブドア、村上ファンド事件も、点で捉えるのではなく、市場のグローバル化の流れのなかで、司法がどう変わっていったのかを理解できました。
本来、市場のことは、市場で解決すべきだったのに、できなかった。戦後の統制経済からの脱却を目指して、さまざまな分野で規制が緩和されたのですが、その盲点をつく人をコントロールする人は、最終的に検察になってしまいました。銀行界でいえば、まず銀行の業界で歯止めがかからず、日本銀行もコントロールできず、大蔵省も方向を見失い、政治家は怒るばかり。金融のほかの産業を見ても、公正取引委員会は?、証券取引等監視委員会は?と、日本社会全体が陥っている機能不全が逆に浮き彫りになっています。
一方、検察も万能ではありません。大蔵省とのやりとりを通じて、検察の苦悩もきちんと描かれています。
日米の検察の最大の違いは、国民による検察に対するチェックがきいているかどうかだ。p.436
漠然としたお上信仰を背景にした権力行使であるため、その信仰がゆらぐたびに、捜査範囲が微妙に揺れます。現実社会は、水戸黄門のように毎回正しい判断で終わりはしません。制度的な担保、アメリカで言えば、政治任用と、キャリア制度(官民交流)は、日本ではまだ実現しそうにありません。
自分たちのことは、自分たちで解決するという、大人社会の原点を再び見つめなおす本になりました。
では。
【関連記事】
- 文芸春秋2009年5月号p.94に「小沢一郎の罪と罰」という対談が掲載されました。
【参考】
・日経ビジネス 2008/7/21 p.83 に書評あり。